04
駒田建築設計事務所
「時代に流されない普遍性、他に類を見ない個別性、20年、30年経っても色あせない価値と魅力を持つデザイン」をテーマに、これまで戸建て住宅を50件以上、集合住宅を20件以上設計してきた駒田剛司さん、駒田由香さんご夫婦による駒田建築設計事務所。2000年の事務所設立以来、息のあったコンビネーションで住宅建築の在り方を追究し続けているお二人に、集合住宅1号案件であり、ご自宅や事務所も入っている「西葛西アパートメント」にてお話を伺った。
(駒田剛司さん、以下T)私の場合は、父親の仕事の関係で中高時代をイギリスで過ごしたことが大きく影響しています。旅行すれば街の中心にある古いゴシック建築の教会に行ったり、城壁に囲まれている中世のお城を見てみたり、郊外に行ってもマナーハウスのミュージアムを訪れたり、つまりどこにいっても建築を見ていたんですね。それで自然と建築って面白いなと思うようになりました。
あと、工作やものづくりも好きでした。特に印象に残っているのが、イギリスで全寮制日本人学校に通っていた中学3年生の時、文化祭で友人たちと作った「新羅善神堂」という三重県にある国宝のお寺の模型です。1/20スケールほどの結構な大作で、もちろん資料もなければ専用の材料もない中、自分たちで型紙をおこして、厚紙と割り箸を使って組み立てたり、砂を掘り出してボンドと一緒にこねて茅葺き屋根を再現したりと、それこそみんなで寝ないで作業しました。それが、とにかく楽しくて。やればできるんだという体験になったし、設計したわけじゃないけど、細かい構造とかも調べて再現して、みんなで「すごいのができたぞ」と喜んだのを覚えています。文化祭でもとても好評で、欲しいって言ってくれる人もいたくらい。振り返ってみれば、そういう経験を積んでいたということで、やっぱり建築が好きだったんじゃないかなと思います。
でも日本に帰って大学受験するとなった時、なぜか願書を出したのは、建築学科ではなく、電気電子や機械工学の学科ばかり。もう何十年も前のことなので、その理由は定かではありませんが…。
はっきり覚えているのは、受験が間近に迫った頃に、なんの経緯か、母親が「剛司は建築とかいいんじゃない?」って言ったんです。適当に言ったんだと思いますが、私はその瞬間、バチンとスイッチが入って、「建築家しかない」と心に決めたんです。運良く(入学してから学科を選べる)東京大学の理科I類に入れて、建築家を目指すことができました。
(駒田由香さん、以下Y)他の大学に進んでいたらどうなっていたんだろうね。心は建築家なのに、学科が違うという。笑
(T)母親はその言葉を随分後悔していましたけどね。バブル全盛で周囲がみんな大手企業に入って行く中、建築家を志したわけですから。反対されたわけじゃないんですが、残念がっていました。
(Y)40代になってもまだ言ってたよね。まだ転職できるんじゃない?って。笑
(Y)私は、彼のような大層なエピソードがあるわけではなく…。九州大学の工学部で建築を学びましたが、家から歩いていける距離にあって、高校のみんなも行くし、理系好きだし…って感じです。笑 ただ、30年前ですから、また地方の国立大ということもあり、とにかく女子が少なくて。7、800人の中に10人ほどでした。建築を学ぶ女子もいるにはいましたが、卒業生は研究者か公務員ばかりで、ゼネコンや大企業には男子が就職していく空気感がありました。そんな中で、インテリアや内装の仕事が面白いかもと思い、地元の東陶機器(現:TOTO株式会社)に就職しました。
(T)男女雇用機会均等法ができて本当にすぐの頃だったんじゃない?
(Y)そうだね。配属されたキッチン開発課は、部員数30人いる中で、総合職の女性は私と一つ上の先輩の2人だけでした。会社全体を見回しても、まだ結婚して子供も産んで会社にずっといる人っていなくて、私はどうなるんだろうっていつも思っていました。でも、仕事はとても楽しかったです。当時、ヨーロッパの一流キッチンメーカーと資本提携していたこともあり、働きながら「いいキッチンとは」、「室内プロダクトとは」ということを学べましたし、どんどん、その魅力に引き込まれていきました。また、働く中で、オーダーキッチンやそれを手がける建築家がいらっしゃることを知り、初めて、自分もいつかこうなりたい、というロールモデルが見つかりました。
TOTOには4年くらい勤めたあと、TOTOに講師としてきていた方の事務所で働き、その後、29歳の時に独立しました。
(T)TOTOを退社したのも、独立したのも、本当に冒険だよね。
(Y)我ながらよく実行したよね。笑 独立した時、周りの人に「女性が自宅で一人で仕事を始めても誰も仕事を出さないよ」っていわれて、そういうものかと東神田に事務所を借りました。まだ仕事もないのに。笑
(T)私は当時は東大で助手をしていたので、帰りにその事務所に寄って仕事をしていたりしました。1995年くらいかな。
(Y)その数年後に、一緒に建築事務所をやりましょうということで共同設立に向けて動き出しました。
(T)「西葛西アパートメント」の設計も、大学の帰りとか週末とかにその東神田の事務所でやっていたんです。
(T)彼女は個人事務所でやっていましたけど、僕が加わって一級建築事務所としてやっていくために、まずは我々の仕事を作らないといけないということで西葛西のこの土地に目をつけました。なぜ西葛西? と思われる方もいるかもしれませんが、ここは私の母親の土地で駐車場だったんです。ここだったら何かできるかもということで、勝手に計画しました。
(Y)最初は勝手に二世帯住宅だったよね。
(T)そうそう。当時両親はシンガポールで暮らしていたので、正月に家族が集まる時に模型を抱えてプレゼンしにいったんです。ですが、結果は5分もかからないうちに却下されてしまいました。笑
(Y)別に引っ越すつもりも一緒に住むつもりもない、という。笑
(T)もしかしたら同居するといったら喜んでくれるかもしれない、なんて期待を膨らませていたんですが、そもそもそんなつもりはなかったと。
(Y)素気無く断られてしまって。チーンという感じでね。
(T)ではどうしようか、と考えた時に、それで彼女が集合住宅ならあるんじゃないか、といってくれたんです。その当時、90年代の後半、いわゆるデザイナーズマンションが、ブルータスとかカーサブルータスとかでも特集されるようになって、すごく注目を集めだしていたんですね。
(Y)ご両親には、改めて、駐車場と同じ利益を出すし、かつ、1円も出してもらわないでもいいようにするのでやらせてくださいとお願いして。
(T)駐車場もずっと埋まるとは限らないし、建物建てて税金も少し安くなったりもするので、それだったらOKということでプロジェクトがスタートしました。
(T)そんな経緯がありまして、設計料ももらわずに、事業計画や資金計画を作って、銀行から融資を受けたり、工務店さんとやりとりしたり、賃料設定とかも全て一つ一つ自分たちでやりました。
(Y)当時は、二人とも集合住宅の知識ゼロだから本当に大変でした。
(T)勉強のために、東京近郊の集合住宅は、かたっぱしから見てまわったりね。
(Y)そもそも江戸川区、西葛西でこういう物件が成立するのかとても不安でした。駅からの距離や竣工当時の周辺環境、私たちにノウハウもなく、周りにも前例がありませんでしたから。
ところがいざ出来上がってみると、募集開始と同時に入居希望者がわーっときて、抽選までおこなって、見学会の時にはすべての部屋が埋まってしまうというような状況でした。
(T)しっかり考えれば成立するんだという感じでしたね。あと、デザイナーズマンションの支持層だと考えていたいわゆるクリエーターばかりでなく、ごく一般の企業にお勤めの方が多く入居してくれたのも意外でした。
(Y)建物が出来上がった後も、週刊誌やグラビア誌など一般の雑誌にたくさん掲載していただいて、ありがたいことに、ずっと満室状態で稼働しています。
(T)設計だけじゃなくて、付随する大変な苦労がたくさんありましたけど、でもそのおかげで、クライアントの気持ちとか、何にお金と手間がかかるということもわかったし、メンテナンス、入居者の質、管理についても身をもって知ることができました。
(Y)当たり前ですけど、事業なので失敗したら自分たちが大変になってしまうので、とにかく必死だったよね。
(T)この時の経験のおかげで、デザインと事業のバランスといいますか、地に足をつけて、長いあいだ事業として成立するものでないといけないというのは、いつも肝に銘じるようになりました。
(T)この「西葛西アパートメント」は自分たちのアイデアをふんだんに盛り込んでいます。外観は、「集合住宅らしさ」を感じさせない表裏のない建築物になっていて、近所の子供がオートロックの外から覗き込んでいたり、近所の居酒屋に飲みに行った時にお店のおばちゃんから「あの建物が何か、長年の謎が解けたわ」と言われるほど。
(Y)この建物の最大の特徴は、各戸の間取りです。全10戸のうち8戸が、それぞれ異なる間取りになっていて、とくに4戸のメゾネットと1戸のトリプレット(3層住戸)は、間口3.6メートル・奥行き10.8メートルのユニットが90度ずつ回転しながら重なっています。
(T)模型を見ていただくとわかりやすいんですけど、ある住戸は4階から入って3階に下りるプランになっているかと思えば、その逆もあり、上下左右の隣戸関係が定まらない複雑さがあります。集合住宅ならではの特徴を活かした他に類を見ないユニークな間取りになっています。
(Y)説明するのは簡単ですが、なかなか実現できるものではありません。私たち自身が企画から運営を行い自由に構築できたからこそできた間取りです。設計も妥協せずにやりきることができました。
(T)特徴のあるものでないと取り上げてもらえませんし、入ってもらえませんからね。長く賃貸としての価値を保つためには、建築としても魅力的なものでないといけないという気持ちはいつもありました。実際に多くのメディアに取り上げていただき、駒田建築設計事務所の最高の名刺代わりになりました。
(T)私たちが常々言っているのは、「人々にとって新しい未来をつくる建築を創りたい」ということ。未来と言っても、デザイン的な近未来感を演出するというよりも、人々にとって「新しくて心地よい日常」の創造を目指しています。
(Y)もちろん、時代とともにその心地よさみたいなものも変化しますよね。例えば、この「西葛西アパートメント」は事業としても成功して多くの人に認めていただけていると思いますが、今思えば、集合住宅として「集まって住むことの意味」みたいなものをみんなで感じられる場所が足りなかったかもしれません。
(T)でもそれは頭から抜け落ちていたわけではなくて、むしろ、意識的にやったんです。間接的には、敷地内に植えた桜の木が複数の部屋から見えて皆が共有できるものではあるのですが、いわゆるみんながちょっと集まれる場所というのは当時は少し嘘っぽいっ気がしていて、あえて共有のスペースを作らなかったんです。
(Y)でも、16年経って、時代も変わって、シェアするっていうことにも積極的になる中で集合住宅の在り方も変わってきているようにも思います。
(T)単純に、オープンスペースがあればコミュニケーションが生まれる、というようなことは今でも嘘だと思っていて、そんなことはありえないと思っていますが、街に積極的に繋がっていくとか、街の人たちを呼び込む仕掛けがあることが、心地よい暮らしにつながっていくと考えています。
(Y)集合住宅の中の住人同士のコミュニケーションを促すというよりは、外部の人を呼び込んで、コミュニケーションを誘発するようなイメージです。
(T)例えば、これまでに手がけてきた建築でも、目の前にバス停がある集合住宅に、バス待ちの人が雨宿りできるスペースがあるとか、住宅地の中の戸建の家で、目の前の道路で遊ぶ子供達がベンチに使える植え込みを作ったり、本当に小さなことなんですけど、取り組んできました。
(Y)小さいけど実際に取り組んでいくことが大事かなと。
(T)そういう街とのつながりがあることで心地よく住めるし、街もよくなるじゃないですか。街がよくなれば、建物の価値も上がっていく。
(Y)大きな話に聞こえるかもしれませんが、これからの時代、それくらいの意識がないと賃貸ってダメじゃないかと思っています。
(T)かっこいい建物を建ててそれでお終いという時代ではないですから。
(Y)特に私たちは拠点が江戸川区で、ポテンシャルを持った街だと思っていますが、都内で人気のある地域とは今はいえないと思うので、自分たちで街の価値を上げていこう、という意識は強いのかもしれません。
(Y)今、実は、この「西葛西アパートメント」の隣に同じ規模の建物の構想がありまして、それはすごくオープンなプロジェクトを描いています。
(T)例えば、1階はパン屋さんに入ってもらいたい。近所にとても人気のあるパン屋さんがあるんですけど、そういう地元の人たちを巻き込んでやれたらいいなと思っています。新しい建物と古い建物(西葛西アパートメント)の間に路地を作ったりして、パン屋さんのカフェが(西葛西アパートメント)桜の木の見えるところまで広がったり、2階にはシェアオフィスにしてビジネス的な交流を生み出す場ができたり…。
(Y)西葛西アパートメントから今年で16年。また新しい私たちの名刺代わりになるような建築をつくり、この街の価値を高めるとともに、街につながる心地よさのある建築を東京に増やしていければいいなと思っています。
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